親父からの電話。
「お前の休みの時、ちょっとでええから写真撮ってくれや」
「ちょっと」というのが、親父の口癖。
結局ものごころついた頃から、サナトリウム生活をしていた親父の思い出といえば、病院のベッドの上しか無いと言ってもいいぐらい。いつも、お袋の苦労ばかりを気遣うだけしか出来なくて、何かして欲しい時があるときは、すまなそうに「ちょっと」という言葉を前置きにする。
「あー、ええで♪」丁度、カメラマンとして撮影の仕事がちょくちょくさせて貰えるようになった頃。僕のことだから多分少々得意げに答えていたに違いない。まさかそれが今お袋の家で仏壇に飾られる写真になるとは思ってもみなかった。
その丁度一年後、僕は会社の暗室で何枚も何枚も焼き直しをしながらプリントを作ってた。お袋に渡す分と、姉貴に渡す分。そして、大阪にいる親父の実兄そして実妹の分。自分自身の分は最初から数には入れてなかった。
シワの一本一本まで、まじまじと親父の顔を見た事なんてたぶんそれが初めてだった。不思議と純粋に親父の笑顔に見合うプリントの調子を何枚も何枚も焼き比べていた。でも、もしかするとそのプリント作業を終える時が息子としてのさよならだと感づいていていたのかもしれない。同じネガのはずなのに、一枚一枚の表情が違って見える。
表情通りに優しく笑っていたり、何かしら怒っているようにも見えたりもしかしたら、これまであまり覗き込んだことのない親父の顔に僕自身が何か問いかけていたり、訴えかけていたりしていたせいかもしれない。そして、何度さよならを言っても言い切れない自分がいたのかもしれない。これがカメラマンの息子を持つ彼の遺影写真。
親父があの時何故突然電話までよこして僕にその写真を撮らせたのか?まか不思議な親父の行動ではあったが当然もう聞くよしも無い。ただ、いつも苦労を掛けてきた妻である僕のお袋そして愛娘であったはずの姉貴にはいつでも話しかけられる写真を残してくれたのは事実である。
それは、残された人間にどれほどの安らぎ、希望、癒やしそして勇気を今なお与えてくれているのだろう。人間なんていつどうなるかなんて分かりっこない。明日逝ってしまう?なんて、どれほどの人が真剣に考えているだろう。まさか、親父だってその一年後に死ぬなんて思いもしていなかったはずだ。けれど、病弱だったけれども親父の偉大なる存在を残すという使命だけは果たしてくれたと残されたものたちは思えている。
今なお、仏壇に手を合わせるその時々で親父の顔が違うように見えて仕方が無い。笑って見える時は、きっと自分でも一生懸命働けているときだろうし、どこか怒って見えるときは、上手く仕事が行かない時などで気落ちしているとき(笑)
いつになったら、毎回優しい笑顔で仏壇の前から迎えてくれる日がくるのだろう?
まだまだ、親不孝途中のバカ息子である。
2012/04/17